1999年の伸縮自在の愛

なんか朝日にしては気合入ってないな、と思ったら真昼間だった。とりあえず起きられる時間にベッドでくねくねしながら起き、スーパーで食べられそうなものと飲めそうな酒を買いあさる。宇都宮市のありえないような気温のなか汗だくで家に帰り、酒を飲みながら向精神薬をその場の流れで飲む。するとどうだろう、なにかに呪われているのでもなければ説明がつかないような眠気が襲ってくる。おれはこの、まとわりつく泥のような眠気と闘いながら洗濯物を干さなければならない。この前この現象を友人に話したら「不良患者で草」と言われたが、もうお構いなしでやらせてもらっている。

休職をして2週間経ったが、得られたものはほとんどない。在りし日は、ベッドの上でくねくねする人をツイッターで見かけては「世の中って広いもんだなあ」とけっこうドン引きしていたものだが、今やこのおれがその世の中という巨大な物語の登場人物に組み込まれ、「くねくねA」という名前で、見たことない形のキッショい歯車を独自の体操で回すことになった。休職は多くの場合、人生に対して利益ではなく損益を増やす方向に働く。しなければそれが一番よいが、せざるを得ない状況になった今、陰鬱なカードショップの匂いがする歯車をくねくね回す。もはやそうするしかないのだ。人生の椅子がいつのまにか失せているのを見て見ぬ振りしながら。

はじめて薬を処方される際、副作用を訊いてみたところ、一瞬の沈黙ののち、眠気がありますね、とだけ返ってきた。他にもあるけれど、今は言わない方がいいという意思を感じさせるような、含みのある言い方がやけに気になったので、家に帰って調べてみると、こんな結果が出てきた。

0.1%-0.5%の確率で母乳が出る。ついでに射精できなくなる可能性もある。

こんな母乳ガチャが当たったって、嬉しくもなんともない。むしろ災害と言ったほうが適切だ。25歳・独身男性(抑うつ傾向)から仮に母乳がでたところで、いったいどんな顔でそれを見つめ、どこに行き場を設ければいいのか?おれは何者で、どこから生まれてきてどこへゆくのか?

ある種の異常を自虐的なコメディに仕立て上げる流行りには枚挙に暇がないが、それをコメディだと感じるのはその人が正常であるからに尽きる。その心笑ってるねおばさんについても、性の喜びを知りやがっておじさんについても、彼らを面白いと思えるのは私たちが病むところなく健康だからで、当人にとってはまったく当たり前のことだから面白くもなんともない。それと同じで、独身男性から母乳が出て面白いと思えるのは、君たちが心身ともに健康正常で母乳も出ないからだ。してみると、正常と異常の間、主作用と副作用の間、あるいは母乳が出る可能性のある乳首と無い乳首の間にある皮肉なズレこそが面白いのであって、母乳が出ることそれ自体は面白くもなんともないのだ。仮に君たちのうち一人でも一度だって母乳が出てしまえば、たちまちネタ話はまったく散文的な事実と化してしまう。あとそれを話すタイミングもある。

つまり、何か。母乳が乳首から出ることになったら、こちらも出るところに出る必要が生まれてくるということだ。忌まわしくそれでいて可能性のある散文的な事実に対して、おれは徹底的に抗戦しなければならない。おれはいま、母乳が出る状態と出ない状態の2つの性質を併せ持つカスのヒソカみたいになっているし、生活はというと、薬を飲んだその日から、抑うつ、転職、そしていつ出るともしれない母乳に支配されてしまった。

時間だけがたっぷりとあり、それ以外にはあんまり残されていない。しかし実家には帰らないことにした。宇都宮市から実家のある下関まで帰るのは、財布にとっても自分にとってもかなりの苦行であり、なにより、飛行機内での減圧によって今までスタンバっていた母乳が出ないとも限らない。だれか伸縮自在の愛(バンジーガム)で両乳首を塞いでほしい。職質も辞さない。

第一、実家に帰って何をしようというのか?やることは宇都宮にいるときと変わりがない。「実家のような安心感」という常套句に決定的な()(まん)を見出す年になった。結婚はまだかと親に言われるが、そんなこと言われると虫の居所がわるい。おれには彼女さえいないのだ。どこかにあるはずの幸運の焔は、下関ではなく東京に一極集中しているはずだから、そんなもの探すは()めにして、おれは必然的に日中を、外で無為に過ごすことになる。昼前に散歩をする。広い公園で野球に興じる親子を通り過ぎる。薬の副作用で射精不能になってしまったら子供ができないことを考える。そのまま母乳だけが出るという可能性もある。

現象が対象に先立つこと、あるいは現象の影響を受ける対象が居ないという現実は、急速に内面化され、最後にはニヒリズムにつながる。子供ができないのに薬の副作用で母乳だけが出続ける、虚無主義の独身男性になる確率は、ゼロではないのだ。車を処分してしばらく経つ。最寄りの停留所からサービスのひどいバスに揺られる。実家から見て北の駅あるいは南の駅近辺で、昼からやってる喫煙可能の居酒屋やカフェを探し、実家からくすねた本を読む。

たぶん阿部公房の「砂の女」を読むだろう。昆虫採集に来た男が、砂穴に埋もれていく一軒の家に閉じ込められ、あらゆる方法で脱出を試みる、ギリシャ悲劇をもとにした長編。昔からの土地柄で根付いた水産業のおやじたちや、こんな田舎でマーケティングなどやっている髪型ビチビチの男らが、向かいのテーブルで怒声に近い声で話し合っている。

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みな、ブレーキが外れている。SEOと魚の話がごっちゃになって公房の文章に入り込む。向精神薬でIQが低下した状態では新しい本を読みたくなくなるから、親しんだこの本くらいしか満足によめないというのに、きっとおれは入り込むノイズをよけることができない。頭の中心部に座った「嫌いな状態発表ドラゴン」は「うつ状態」を連呼している。

だれか伸縮自在の愛(バンジーガム)で両乳首と両耳を塞いでほしい。執行猶予も辞さない。